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くうくうく

 人は実は 自分が自分を一番笑わせられる  ことができる、パフォーマーやと思ってる☆ 

TV または、卒業


【画像はサントリーボスCM画像】
 
 染谷将太くんが菊地凛子のだんなって事実はあらためて染谷将太の女の趣味の尖り具合に驚嘆せずとも
どうしてそんな若くして結婚を!?
てつい余計な世話焼くほどこれまた逆にアナーキーやがなっ てやつやったが まぁそんなことはいいとしてだ(長) 

そんな染谷くんもでている
缶コーヒーbossのCMで

近頃の若者はTVを見なくなったらしい

てやつがある 
 アタクシは
ごたぶんにもれず
若者じゃもう
充分に無いので 
TV見ないとか、まったく無い 

無いのに

肝心なやつに限って
見逃しがちで

そんなときは
こっそり
ごっそり
胸にすり傷、ジクジク痛めている・・

“こんなんだったらいっそ
TVなんて見ない
って決めたほうがどんなにか
精神的に楽だろう ”

ってなることもママアル
わけで…

そっか

てことは…

TVを見たばっかり に
知らなくていいことまで
知る羽目になってしまった
 
という場合もある
ってことなのかな‥。

つまり、TVというのは
あるいみ
出会いの場である、といえ

その出会いが
はたして吉とでるか凶と出るか
それはその時にはわからない 
ということ。

そして
それこそが
TVの醍醐味、存在価値である
といえるのかもしらん。

さて、
問題はこれ。

知らなきゃいかんこと
と知らなくていいことを どう分けりゃいいんだろうということである。

しかし
正しい行動がなにかもわからないし
なにを基準にすればいいのかもわからないので
ここはやはり今まで通り

なんで見たんだろ と後悔したり

当事者でもないのに胸を痛める、
という偽善をしたり

/ときに加害者の言い訳を想像しては偽悪ぶったり、

/何故こんなことが起こるんだ!
こんな悲惨が起こらないようにするにはどうすりゃいいのか?!

とそんなふうに、 
埒があかぬ迷いの泥沼に
敢えて足元すくわれてみたり、

結局、そういうふうに迷いながらしか生きられない私は

自我を肥大化させながら生きるしか
無いキがする私には

だから、とどのつまり 
意識していくしかないだろう、
 
つまり、
あ、いま、私は○○をしている、
あ、いま××になっている私、
とか
そうやって
キづいたときに、自分の感情を観察してゆくしか無いのだろう、と思っている。

生きるとは都度都度修正修正 
by my case (笑)

私はブレる人間だ、
ということを忘れないんだ。

ところで、
週明けたら、公立高校の卒業式なのですね・・^^
おめでとうございます!
全然関係ないけど書くことも無いので(照)

こっから
予想外の二部構成に!(´w`ゞなってしまった・・

  10代の先トンネルの奥まだなんにも見えない
ただただ暗くて
それでも見据えていたのは
卒業だけだった(^-^)v(笑)ピースって。
と、に、か、く、それこそすべての希望は卒業に通ずそれこそローマ並の存在感よね、卒業ったら。(笑)

太田光は高校時代学校で誰とも
一言も喋らなかったそうで
【正】の字を机に記しにいくためだけに学校行ったらしいけど。

学校のみならず寮生活も込みだものこちとら 指折り数えるなんてしない ただ季節の行事をこなすだけに焦点しぼる、と。(^-^)vぶいぶい
来るべき卒業の日を夢見て毎日の掃除をする。週一の中掃除する。学期末の大掃除する。それを六年分するよし。そしたら解放さるっちゃ。タエロタエロタエロ(笑)

わかんないけど

始まったらいつかは終わるから安心して繰り返していこ。
あたしが言えるアドバイスはそんな感じのネガティブ〜ともポジティブ〜ともいえない
ポガティブでGO♪(照) (← ネジティブのがよい?) 

 冬来たりなば春遠からじ

って
これ、春の句ではない、   よね?( ̄▽ ̄;)(照)(^-^ゞ

おあとがよろしよで

アメシャイン 


くもり、小雨、店舗のなかは
ムシムシ暑く、今クーラーいれてる オ- 省エネ的にはブー やね

もとい。
 
出勤前
叔母に用があり  
叔母宅へ立ち寄る。

湿気に
 そぼろ降るこぬか雨
雨粒はまるでアクセサリー
 ツヤツヤと花壇の花たち
可愛いのな♪

叔母が手塩にかけ
育んだ花たち植物たち
   
そそくさと 
用が済むやとっとと帰ろうとする(笑)私に
「(庭)見ていきなさい」
と 勧める叔母 
 お陰で 手入れの行き届いた花たちを眺めることができたのだ・・・

ほんと
ぼっーーっとしてるくせにこんな
ときだけはそそくさそそくさガサガサした奴なのであるあたしったら( ̄▽ ̄;)

しかし、そんなガサガサした私でさえ
こんな天気の元、
庭に咲き誇る花たちの様子には
みとれる。 


ワタシには甲斐性がない
いきものをそだてる甲斐性がない

“自分を育てるのさえ面倒なのに
他のいきものをそだてるなんて
無理です”

なんて

いきものをそだてる 話がでると
必ずといっていいほど出てくるセリフが↑上記↑だったりするが、

ほんまに
自分さえも ろくに育てられないや
餌もようやらないのだ
餌、、、て、ぁ、イッケネ
食事ね。。
だからっちゃあなんだけど
1日に一度は必ずメッセージタイムを設けているよ。

花も
言葉がけすることで 
成長に影響がある、そうじゃない?

私も自分の体に毎日言葉がけする。
せめてもの愛のしるし、として

うんみょしてるとき
とか
おしっちょしてるとき
に、とくに誉めそやすね。(照)。

いつもありがとうね 
あたしのためにうん○だしてくれて
偉いのうお前はほんまにエエコやな。
そして小水を排泄後にあっこに紙をあてて そっと声をかけたげるのだ

 ごめんなぁ おしっこと紙ばかりでしか 孔タ(アナタ)をつかってあげられなくてな・・
 
「みなまでゆーな」
そんなへんじが股間から 
響いてくるようだよ(´ω`;勿論
キがするだけさ(笑)

とにかく
相棒なのである
自分のボディ は 一番のバディ
なのであるから。

なんの話でしたっけ。

そうだ
叔母のうちの花壇のはなしだったんだ。

あたしって
話題もないのによく文章書けるよね
くっだらないことをね
書けるよね〜〜(照)

ついでに
先日書き忘れていたことがあったの
どーでもええことやけど

ラジオ人生相談の
 加藤諦三さんの誕生日が1月26日てはなし(笑)村上信五ことヒナちゃんと同じ誕生日てはなし

以上。
またかくね!懲りずに読んでくださいm(_ _)m 

感情★フォンデュ



甚だ
唐突な入りであるが

怒り新党、
以外の
有吉さんの番組を私はほぼほぼ
見たことがない(・・;) … マ、
たまたま、 なのかも
  しれないが…。

そっからいくと、
なるほど、それは私の体力や耐久力が落ちたからそのせいで、だ、
とも言えるだろう か。

他にも
例えば、爆笑問題の太田さん。(笑)
彼がやらかす数々のフザケに 
どーもついていけなくなってたり( ̄▽ ̄;)、、、あああ やっぱそんな点からも私は
自分の体力がついていけてないせい、とわかるわけで。

年取ったのかな…。

せや、で。
おばはんが深夜放送とか
もう聴かないで寝-や、
  という ごくシンプルな
メッセージなのか?と考えたり(--;)
(笑)

とにかく さっこんの
なに見ても以前ほど面白く感じないのは
 相手がつまらなくなったから、
とか向こうサイドが原因では無く

あるいはまた、
嫌いになったのだ とか
感情まで巻き込んでしまったから
ってわけでも無く

単に
ワタクシの疲労のせいだと思うわけで。( ̄▽ ̄;)

だが、こうも捉えてみるのだ

もしかしたら
やっと
この年になって
初めて、正直に反応できるようになったのかもしれないじゃないか(笑)?!
そ、
もっとシンプルに行けよ、行けばわかるさ、的な? 
こっからは さぁ
ますますアントニオってけよ!みたいな?(照)

こうは考えられまいか?

普通は
大人になるにつれて
“好き嫌いとかがどうでもよくなってきた”枠のひとも増えそうだが、
それと平行して
より頑固に、
“わしゃキにいらんもんは
キにいらんのじゃ!”と 
駄々っ子度が高まってゆくご老人の部類という枠も需要が高い、と。

振り返りしなおしてみれば

前の前のエントリの記事にかいた
子供時代の出来事以来、反省というか痛い経験から学んだ見方というのか
とにかく
主流ではないもの、傍系なる存在、に対し矢鱈とキにかけるようになってしまった。
で、だ、
思ったのだ
人生の折り返し地点をむかえたいま、次の課題は正直に、素直に、

自分のなかに
トロリとろとろ 
まるで チーズフォンデュのチーズのごとくに感情が溶けているのならば
その好き嫌いの感情を認め
その感情のあつあつチーズに
正直な感想や
素直な本音をからませ パクり
喰ってみなさい、と。そうなさい!(^ー^)V
という
トレーニングとも 考えられるからなのだ。
甘えてみなさい。
甘えて嫌われるならこれから先ご縁を結ばない部分だった、てこと
深く考えすぎたりするのはかえって
相手にも嫌な手間をとらせること
かもしらないのだ、と。


わかんないけれど。

今まで聞けたものが聞くのにあたり
我慢を強いるようになっている
のならそれは
シグナル。

気持ち、無理無くきけるものに従いなさい。

なんとなく
そう感じ始めた2月の末端も末端
または切っ先(鋒)、とも言う?

かも。
うん、わかんないが
とにかく変えたいの、だ。
変わるのは知ってる
だからもっと加勢してチェンジを
果たしたいのです… 。

わかんないけれど。



ジヌよさらば


マツヲさまが
映画をお撮りになられてらしたとは 露知らず。

会員になった映画館から毎月届くプログラム小冊子に挟まっとるチラシに
松田龍平、が 
とならんで 
阿部サダヲ、も映っている、、ぉぉ阿部サダヲだぁ・・タイトルはぁ、と‥なぬなぬ『ジヌよさらば』‥‥
ジヌ、、、?韓国っぺぇ響きやのう〜と 思いながら
あらすじ なんて見た
ら、
“お金を一円も使わないで暮らすお金恐怖症のもと銀行員”ウンヌン
とある

ジヌ?

そっかお金の意味かぁ!ジヌ。
ん?ウチナーグチんかい似ちょーん!(゜ロ゜)(゜ロ゜)アイ、アイ
くれー、まぁぬ出身の監督作品やがやぁ?九州人? ジヌとか使いしや。
 ・・・と思ってたら 
松尾スズキ  の文字を見つけてしまう
監督だった。脚本だった。
さらに
まぁ
出演もしてた。
『ジヌよさらば〜かむろば村へ〜』
てタイトルだった。

知らなかったあまりに知らなすぎた

しかもそのチラシが
なんかす ごーく普通で
全然おしゃれ感無くて
キャッチー違くて
だから
目にさえ止まらなかった
いや下手したらダサいなぁと。
じゃ
なんで
無視するという積極的選択せずに
地味に引きずって改めて眺めたか
ゆーたら

やはり

ジヌ

という単語の響きだったのである。

韓国っぺぇ響きだったのである。

これは賭けかもしらんと思いいたる

そして99、9999%マツヲちゃんは本気でいったろ
思ったはる、
と思い至った。
ヒットしそうなキがした。
わかんないのも(情報知らない)またいいのかもね
ともやっと思えた。
純な繋がりを思った。
初めて松尾スズキという名前を見
初めて松尾スズキという面白い名前の人の本を見て
直感で買ったその出会い以来の出会いを感じた。
わかんないけど。
こんにちは。という気持ちだった。
(笑)
挨拶ってかんじな再出会い。
四月四日
味園ユニバースの沖縄での公開日と
同じである。
ご縁なキがして、見ようと思った。
いやいや、味園ユニバースは関係なく(笑)だ。ふつうに見たいと思いました。です。
ちなみにここに補足が記されていた

ジヌ・・東北地方の方言で「銭」「お金」のこと。( ̄▽ ̄;)と、とーほくです  て、
沖縄もジヌに近い方言なんすけろ(照)_(^^;)ゞジンって表すのかなウチナーグチでは。

原作は いがらしみきお さん
なんですね。




 すこしまえに起こった
痛々しい事件 
(からかわれていたらしい男が
からかったとされる
その小学生男子をさつがいするという事件)
の経緯を聞くにつれ、

私は自分のことを振り返り
ふと、首のうしろのあたりが
スッーと冷えてゆくおもいがした。

 その事件の真相は私には知るよしもないが、
私のそれと状況がもし似ていたとしたら?
少年が別次元での私の姿と重なった。

 小学生のころ
私は本当にバカだった。
間違えないで重なったのはそこじゃない 
いや、
バカだった、なんて
過去形に書いているが
大人になった今
そのバカは常識的に抑制できているだけで、
実際の自分から
“バカは一掃されたから信じて下さい”
とは言うことはできない。


 小学生のころ 我々は
近所に住んでいた少し変わったお兄さんを
退屈しのぎに 
からかうことを遊びにしていた。

我々、と書いたのは
一人一人になると
罪意識が沸いてくるから、
それをなるたけ薄めるべく
幾人かでつるんでやっていた 
とも考えられるからだった。

はっきりとは わからない
ただ おそらくだが
我々がからかった
そのお兄さんには
精神疾患が
あったと思う
 じつに残酷であるが、
だからこそ、
からかい甲斐の
 あったのである。

どう からかったのかというと、
ピンポンダッシュ である。

ピンポンダッシュ
というと
いかにも他愛もなくきこえるが

明らかにわかってて
からかっていたのだから
多少なりともイタズラは意識的だったということだ。

その兄にい の
そういう一風変わった精神構造というか
つまり、
見た目は大人なのにもかかわらず
我々がよく見かける
そこらへんの大人とは
リアクションの仕方も、質も、明らかに違う 斬新な存在/我々に対して子供といえども容赦しない態度/

彼のそれ を見たくて
それを引き出したくて
我々はたまらないかったのである。

ある意味彼は
我々の冒険島だった。
つまり、生けるアトラクション
として捉えていたように思う。

そう
本能的に我々子供は感知はしていた、
彼の反応には
我々も命がけという代償が要る、のでは?と。 

だからテンションが釣り合った。
からかうのにあれほどまでに興奮していたのだ。
逆に言うと
まさにそんなことができるのは
その兄にいだからこそ、だったのである。反転した両想いのような構造だったのである。

そしてある日
証明される。

いつものように
ピンポンダッシュしたら
いつものような
返答がない

あれ?

もう一回ピンポンダッシュ

・・・ない

ピンポン
ピンポン
ピンポン立て続けに鳴らした(マジで やなわらばー にもほどがある)

 っっっっっ(←兄にい が せーの、って いったんひく表現 ) ざばーーー んっっっっっっ

上から 大量の水が 落下

ずーぶ ぬれ まくった我々

見上げると
上階の窓に
ひっくり返した青いポリバケツをもつ彼が、いた。


  そして我々は
びしょ濡れの
小学生

爆笑した
 なま、で
 素、で
まさかの
ドリフのコントみたいなことになってるこの場面に、
我々は しびれた。

もっと
もっと
さらにもっと刺激がほしくなった。

水ぶっかけのお仕置きは
我々には火に油
兄さんにとっては
ある意味、誤算ともいえた。

後日から、
よりピンポンダッシュは頻発した。

ピンポンし、そく上を見るのはお約束になった。
もっと冒険度があがったわけである。

 そして その日 ガキタ


  きゃっきゃっ
ピンポンダッシュしようと
我々ガキどもがいつものように
玄関の扉にちかづいた瞬間だっ

  
扉が
向こう側から、ひらく



我々のちょうど目の前あたり

突き付けられている のが見えた
え?何

出刃包丁であった

時間が止まったみたいだった

  「たっくるさりんど」

大声ではなかったが
えぐるように わたしの耳に届いた

大和口(標準語)にすると
 
 ぶっころす

といった いみ か、

蜘蛛の子をちらすように
我々は逃げた

この兄にい にか 
神様にか?
わからんが
とにかく、何かにあやまりながら
我々は逃げた

以来一歩も近寄らなかった
否、近寄れなかった。


 イイコトをしているとはさすがに思ってなかったと思う が、
最初のうちこそあったイタズラに対するある種の感覚、
どっか悪いことをしているかもしれないというキも だんだん消えていき
 これはゲーム
 これは互いに疎通ができているオフザケ
向こうもそんなに嫌がってはないはず、等々
我々サイドの勝手な思惑は
以来、ピタッ 
と切って落とされたように無くなった。

四〇年もまえの出来事だが
水が頭に落下してきたあの感覚
庖丁の刃、
いまでも 浮かぶ。
そしてきゅーんと
悪い、ごめんなさい
と下腹部がからっぽになったように重心が変になる。


この こんかいの 殺人事件の
真相は 私には わからない
 だから

容疑者とその少年のあいだに
何がほんとうに起こっていたのか
うかがいしれない。

だがアタシみたいなアホなイタズラ
オフザケを もししていたとしたら

あるいみ
冒険島で命をおとしてしまった
とも、言えやしまいか。
もちろん
殺人は重罪 
もしも容疑者が
真犯人であるのなら
償わなければならない。

それにしても、
じつはなんにせよ
命がけではないものはなにもない
の だろう。

オフザケは命がけ

ということを
肝にめいじなきゃならないのだはずな。

自分はたまたま生き残ってしまった。
ていうか
なんだろう

ほんとに
ろくでもない 

おのが業の程度、を知らされる思いだ
それは
全く凡庸さの無い 
重く
深く  
鋭すぎ
といった いわゆる
“宿命に翻弄され” やら

“このどこまでも凄まじい運命たるやいかに ” というレベルの
尋常ではない業からはあまりに程遠い マヌケな業  をである。


アタクシの敬愛する根本敬氏が言う

“犬小屋発豚小屋行き”

という業。

気付かぬは人間だけで
そいつがやってることは実に 
左の犬小屋から出発し
右の豚小屋にたどり着くことである。それだけが人生なのである。

神妙な顔して歩いているが
出てきたのは犬小屋からであり
真面目くさり苦悩してまで向かっている先は、豚小屋。

それを知らないからまるで己が
宮殿で生まれ
連行される先が牢獄 
みたいな
フランス革命でギロチン顔
でもあるかのように考えてしまうああ恥ずかしい(照)

ほんまになんてアホ。
何度言い聞かせても
くよくよ傷ついているアホ。
しかしすまんあたしはわるいが顔ににあわずロマンチストなのだ。(笑)
犬小屋であれ、豚小屋であれ
アタシの目には確かに宮殿と
確かに牢獄に、うつるのだ。

TVは
そんなアタクシの妄想を手伝い舞台に使ってくれる演出家なのか
それとも
いつか供物にするべく肥させるための餌なのか

わからないから
とどのつまりTVはあたしに
自分のスイッチを入れさせる
スイッチを入れるのは
退屈と寂しさと虚しさと。
ねぇ、もしもそれらが
TVからの置き土産だったら?
確かめるためにもうTVなんて見ない。て言えたらどんなにいいだろう。
わからないからとどのつまりスイッチを入れるあたし。
おわらない。使うがわか使われるがわか。わからない。わからないまままた見てしまうのだろうか。
どうしようか。どうされたいのか。
ひとまず、合掌する。
どうか、安らかに。


宣誓、誓いません。 



わたしのすきなもの
わたしのじんせい
わたしのいきていること
わたしのからだ
つまらなくない
なくないから
まよい
さまよい きた
いまだにまよい
さまよっているけれど
まようじぶんをみすてない。

まだまだまだまだだ
まだこっから
こっから
何がって?
いつもただ一歩をふみだす
二歩めが、ないのさ
いいのそれで
一生をかけて一生分の一歩

おはよう
いってきます
ただいま
ごちそうさま
いらっしゃいませ
ありがとうございます
おやすみなさい

自由は寂しく
自由は不自由
自由は切ない
だからこそ
自由はそのまんま

今までどうもありがとう。

あたらしく3月
4月がキタラ
少し変わりたい
いや、きっと変わる
そう、書いておこうよ。

悪い習慣をやめるんだ。

何でもない。
毎日なんて、無い。
これがある
あるのはいま めのまえ だけが
ある ある
それがある。

迷うなら迷っちまえばいい

戻る日もあれば
ホップステップじゃんぷ見えなくなる日もある
それでいいじゃん
それでいいじゃん
うん、
アタシのまよい
アタシのきまぐれ
ことさらなやむな
ことさら深く不安になるな
不安になるのも
なやむのも
すべてリズム感なんだアタシのこれは。

以上 関ジャニ∞
を好きすぎる から
普通に好きに移行しましたよ
という
お知らせの声を自分にかけてみました
の巻(照)

というふうに、ね
いったん書いときたかったのです。

ほんとはただ依存症
ほんとはただ不満を隠したいから満足げを演出している
ほんとはなにもない
なにもないと生きられぬから夢中、特別、過剰、渇望を自分に科している
あたしはほんとはなんにもない
なんにもないくせに威張りたい
なぜならプライドがむだに高いから
それはなぜかひとりぼっちになるのを異様におそれているからだ
さむいのだ
さむい
こごえる恐怖
そうすべては恐怖心を覆い隠すためだ
ワタシは寂しがりや
わたしはバカにされたくない
私は褒められたい
いい子だと愛され大切にされたい

されているされてきたずっと愛されてきたのにこんなに寂しいこんなに虚しいそらぞらしい

だから恋や夢中や特別や哀しみを食べた過食した。

中立に
ぼうっと
からっぽのまま
いっきに溶けてしまいたいながれる涙になりたいよ
いまいちど好きな誰かの涙となって
乾きたい。
あのひとの頬という墓地で沈みたい。
鎮魂。

しずかにいたい。
どうして、こんなにノイジーなのだ。そうだ。
ノイジーなのは静かの裏返しだ。
あたしよ。
自由にいよう。
きまぐれでいいさ。
嘘無く、あたしは嘘つきでいいよ。
なぜなら、“ほんとうの、”ということがアタシには無いのだから。

毎日なんてのはないけれど
だから、こうやって一日ごとに一歩。
明日はまた、変わるかも。
わからないから書いておく。
温度、平熱になりました。

変わりたい。
いや、変えたいだけ。
誰でも、うん、たぶん大部分の人が出来ていることアタシも真似して
文明人みたいなことしたい。

清潔にとか
散髪するとか
掃除するとか
変な悪習慣やめるとか

こんなことがしたい。

これができたら
ナチュラルに移行できるかもしれない。
人間の女みたいな一般的な意識もてるかもしれない

それでもできないんなら
あきらめて
嫌われよう
そして好きだといってくれる人を受け入れよう
もし、いたらのはなしだが(笑)
ま、
いないならいないでいい
自由に不自由を満喫するしかないじゃないか
、かごのなかの世界
箱庭もまた
ちいさなちいさなアタシのためにきっと、ちょうどいいのだろうから。

まずは
いままでどうもありがとう。と
いったん。書いておこう。
明日はまた
好き好き大好きといってたら
言ってら、でしか、ない(笑)(笑)。
よ、ないべ、ないね、うん、イイネ、だ。




ラジオ人生相談
聞き逃しもするが
聞けたら断然聞くようにしている
法律的相談の場合がいちばんテンション下がる(笑)
やっぱ他人事だからエグいものやヘビーなものだとイヤらしいけどやはりグッと引き付けられる。人の不幸は蜜の味
とはよくいったものだ
いやもちろん自分の周囲の人間は
不幸になってほしくは、ない
なぜなら
まわりに問題が起きてなく安泰であれば
私は自分のことばかりにかまけていられるからだ
自分のために、ひとには不幸になってほしくない
これがあたくしの基本的スタンス
イェイ・・

つか
ラジオ人生相談のはなしだ

 もっぱら単なる
やじうまリスナーでしかない私だが、
だからこそ
回答者の先生にも
当たりハズレがあるの( ̄▽ ̄;)
人間としての好き嫌いとは別に、ね。
で、きいていたら
相談者もじつは 自分の話を聞いてくださる先生にたいし、
今日は当たり今日はハズレ、
みたいなおもいを抱いているふしが見受けられるようで
相談内容以外のそういうとこも含め、とても興味深い・・ (笑)

 大原けいこ先生 が涙をこらえながら 
それはね坊っちゃんがいい子だからなんです、とか
 お嬢ちゃんね ほんとは全部わかってますよ、とか
言葉のチョイスや、さとし方、
そして ご自身“少女時代のけいこちゃん” に 戻れる
または
“いつでもけいこの味方のおばあちゃんとそのおばあちゃんに慰められるけいこちゃん”を一気に再現するタイムスリップ感性がスリリングで、
アタシ的にはその日回答者が大原先生なら、大当たり(笑)

逆に違う意味でスリリングなのが
精神科医のおじいちゃん先生
 お名前失念してしいましたが

なんとなくですよ?
なんとなくですが相談者も実は
このおじいちゃん先生に当たると
ハズレひいちゃったなぁ・・的に 思ってはる人が
こう多そうな、キが( ̄▽ ̄;) す、すみませんが するんです
いや、もう
達観というか それこそ、
年の功というかもはや語り部というか
“具体”とかは
とっくに不要となり(笑)だから
アドバイスでなく 
「がんばんなさいよ」 
のひとことに奥義が 全てこめられているみたいな、
武道みたいなことになってて。 この先生を たてながら
同時に失礼に当たらぬようフォローをし、回をまとめあげる
加藤諦三氏の手腕というか
すごい。

あと、心についてのエッセイスト、でお馴染みのマドモアゼル愛先生、と毎回
必ず紹介されるマドモアゼル愛先生の回も安心感がある。
本日の回答者はマドモアゼル愛先生でしたね。

42歳の男性(独身、一人っ子、両親健在、一人暮し、学校出て就職したその会社に今でもずっと勤めている、会社からの信頼は厚い)
からの相談であった。
「生きている実感があまり感じられない、と。
これまで自分なりにきちんと生きてきたのだが、42歳になってふっと考えた 
(←彼がはっきりそう言ったわけではないが、どうも聞く限り貯金もそこそこあり、
退職すれば退職金もそこそこ貰えるような ちゃんとした働きをして生きてきたようであった) 
なんだろう、自分は何のために生きてるんだろう、こんなだったら いっそリタイアし、残りは余生にしてしまったほうがいいんじゃないだろうか、
わからない、これから先いったいこんな自分はどう生きていけばいいか御指南いただきたい 」
みたいな内容。

加藤さんもマドモアゼル愛さんも

あなたの半生は立派だ(別の言い方するなら、人生の勝利者といってもいい)
もっと自らを誇っていい
と認めた上で
これからは
人生を他人と共有するために
ポピュラリティを取り入れたらいい とアドバイス。
ポピュラリティとはどういうことかというと、
今タレントにせよ、政治家にせよ、
人気があるのは“普通の”“一般的な”感性を持っているひとである。
とは愛氏

かたや加藤氏はいう 

 こんな実験があるんですよ、と
色んな人の顔が写った顔写真を
被験者に渡し、見てもらう
そのなかに一枚だけ、
個人の顔ではなく
色んな人のパーツを組み合わせて作った合成の顔 の写真を入れておく。
全て見終わり、さて、この中であなたが一番好ましい顔だと思ったのは
どの顔写真でしたか?と尋ねると かなりの高確率で
“(実在しない)合成された顔”
を選ぶのだという。
このことから
何が言えるかというと
“人は、最もよくある顔 を好む”
ということらしい。
 
“いつかどこかで見た覚えがある顔”
ポピュラリティというものも
どうやら、そういうことらしい。

だから、
あなたも(相談者にむかい)これからは 流行を、キにとめてみる。

多くの人が考える清潔感のある服とはどんなファッションか、

多くの人が好ましいと感じるヘアスタイルはどういうものか、

などなど こう一見 ただ流されているように聞こえるが
そう捉えずに。
生きる楽しみを見つけ出すには、誰かと共有することで
それが高まることが多い、というだけのこと。
結局そういうことを考えるということは“余裕”があるということ。
だからあなたもポピュラリティを身に付けるのをゲーム感覚でいいから、
まず楽しむ、そんな一歩から始めたらいいのでは?
ざっと、
アタクシが聞いた感じではそんな回答に聞こえました。

ぶっちゃけ
その相談者さんの話ぶりを伺いますに いわゆる
【マジメだけが取り柄の“モテ”には なかなか縁が無かった人】
っぽく聞こえたんです(すみません)いや、声のトーンしゃべり方なんとなく伝わるじゃないですか?
いやいやそういうことありますよね( ̄▽ ̄;)。
そこからいくと、加藤氏やマドモアゼル愛氏なんかは、男性としてもおモテでらっしゃるだろうとことは想像に難くない。
要は相談者さんに、アナタは十分に 社会人として、働き人として、息子として、役割を果たしてる、
これからはもっと“モテる”ことを考えなさい、と。
どうやったらモテるか考えるのは男として決して恥ずかしいことでも、はしたないことでも無い。
寧ろ、あなたの生きざまに これからはプラス チャラさ、みたいな香りが入るくらいが 
アナタにはちょうどいいのかもしれないじゃないか、
今も人として素晴らしいのだから、これからは大人の男として可愛いところを魅せていくの、
いいんじゃない? 人生を楽しんで!!

そんなアドバイスに聞こえたのでした。

ポピュラリティか、、、
自分にとってかなりこれはうちあたいしました
なるほどなぁと。

モテないのはやはり圧倒的にポピュラリティが不足してる
なんなら、
ポピュラリティを憎んでさえいるかも( ̄▽ ̄;)
共有されるような何かより
自分のくそを自分がいちばん愛しくおもい
それをべっとり塗りたくってる自分がいる、
汚いたとえだがまさにアタシって、そうしてる。 
いわば→「誰も俺には近寄るな」
←エレファントカシマシの『待つ男』という歌みたい。
ただし
宮本は、モテる。なぜなら宮本とポピュラリティはツンデレの関係だからね〜(;´д`)互いが互いを憧れ憧れられているから。
そんなことより
二人の弁護士先生男性と女性の。
淡々としたトーンが逆にいろっぽい大人の女性フェロモンとなってクールに漂う 女性弁護士

一般人とは思えないほど 声の説得力がとにかく、ぱねー 男性弁護士

この二人のときも なんか面白い。 できれば法律相談も内容ができるだけえげつなくドロドロしとるのがいいわ。よね。あ、いかん。他人事だからって調子のりすぎました。ちゃんちゃん。はんせー。
ばいばい。ほなな〜。長長とすんまそ。

 まなびや 


地元のコミュニティーFMから
金田一耕助シリーズ犬神家の一族の愛のバラードが流れてきた
ゾクゾクっやがて
ウットリ、となった 。

思えばさ あれは
小学生のときでしたかね
土曜日でしたかね
子供には土曜日はドリフが一番の楽しみでしたよね 

ですが同時に

これがなかなかいろんな意味で
見れたり見れなかったりだった番組が金田一耕助シリーズでした

映画ちがくてTVの。
古谷一行さんの金田一耕助。
めちゃめちゃカッコいいと思ってた
文机に散らばるフケさえも あれは大人の男のフェロモンが粒になったやつや思って  
カッコいい対象だった・・ぱらぱら
ああしかし
今じゃ
フケの男性見たら可哀想に感じる始末(泣)フケってそんなウットリするもんじゃないだよな。と知ってね。つまんないのう。
   金田一耕助シリーズは
放送時間にしても
ナイヨウニしても
たしかに大人の番組だった。
つまり、エロかったのだ。
だから子供ごころに見たかったのだ
そして大人は、なるたけ見せたくはなかったのだ(笑)祖母のまあるい背中(ポッチャリさんだったから)に隠れて見ていた犬神家のスケキヨや、菊人形とすり替えられた生首や、
八墓村の祟りじゃあ〜〜 や、獄門島の逆さ吊りの死体や、濡れ場濡れ場濡れ場(照)  
「ノスタルジーかよ。」だからよ。


年の差カップル
でよく言われる ジェネレーションギャップ 
見てたTV番組のセンスと濃さが違う
って話 なるほど、あるのかもね。
特に実感したことなかったけど。


ちょっと話ズレます

私は昭和40年代生まれですが
わたくしの感性では  
どちらかというと
新しいものや情報を知っているということより、
歴史的総括ができることがカッコいいと思っていましたね。
つまり知識教養が豊富な人を尊敬するというのか。今だってそうなのかな?
いや、温故知新
だったと思います若い頃に
現実の生活で
あたしがやってたのは。

文学も
音楽も(歌謡曲も)
映画も
最新のより
昔のものを学んでいたキがするんですよね。
あ、そもそもあれなのか…
学ぶということじたいが“受け継ぐこと”そのものを指していた。

歌謡曲ひとつとってもに、
年上の人と話が合うとすごく嬉しかったり(笑)
「こんな曲若いのによく知ってるね〜」
と言われるのがあの頃はもう、
自尊心には何よりも養分だった。
つまり、逆にいえばそれこそが若かったという証明なのか・・(笑)

古い
という片付け方は恐らく、なかった

というのも
実際のサークルの先輩がたに対し
カッコよく尊敬できる対象だと素直に思えていたそんな牧歌的な時代やったから かもしらん。

アタシは
なにも出来ない無知でマヌケな後輩、でいられた。(笑)。

バカみたいな感想だが、

あたしらの時代の大学生て
今より、ちゃんと老けていた。

髪の毛に花をさす なんて
ハワイの人のでもない(またはハネムーンでハワイにいった新婚さん)
ヒッピーでもない 人が
おいそれと 髪の毛に花をさす なんて できなかったもんだ。

とにかく、いまは幼くみえるほど(若い?)よいとされてるキがする。

デカいリボンが 
髪にも服にも靴にもカバンにもついていても
なんかセーフだもんね 斬新っちゃ、ちょお 斬新やおもう。はい。

どっちがいい、どっちが優れている
とかは 無いと思います。

どっちもそれなりです。

必要じゃないものが必要になる 
(笑)それが人間の文化ですもの
キラキラっ☆

ダメなとこも含めてそれも
またでっかい流れからみたら
趣、
てやつなのかもしらんし。

アタシといういったいなんのために
居るのかさっぱりわからない存在すら生きている それが文化だよな。

性別女であるが
性別女であることを発揮したこともない (たぶん)

中年(初老)と呼ばれる年齢まで生きてきたが“年の功”を発揮したこともない

なんにもなんにも無い

そうです
そういう意味で
現代的価値観でいうとこれもそれも自己責任です、自業自得です、となるのかもしらないが、

ひとつたったひとつだけ意味があるならば、

自分のような人間が
たったひとりでもいたら
そのひとにむかって大丈夫
それでも生きる
どんな人間であれ生きていい
と安心して生きて
どんな思いが沸いてきても
どんないびつな想念をもて余していてもそれでも
生きている
雨は降ってくれる
風が吹いて陽光は注ぐ大丈夫
ただそれだけを伝えるためにだけ生きている意味があると、思っている。

かなしむひとよ
むなしきひとよ
むだな存在に思えようと
崖に咲く花もあるさ。

裏返せば
自分を抱きしめるためだけに
あたしは半世紀をかけてこうして一人大地に、いるんだよ。(^ー^)。

















道ノトチュー


にんげんだもの。
〜みつを〜  

的ないわゆるbyみつを。みたいやつが 
じぶんが
苦手なのは、

根本まんがに登場するスター吉田佐吉や、村田藤吉、鈴木定吉他 根本作品の登場人物を 受け止めれ 肯定してしまえること を総して
“にんげんだもの。”
と使ってナイようなキがするからです。
しかし

とはいっても

そんなあたくしが それらを表すのに際し使っているのは 言葉 でしかありませんで 役に立たない うわべだけを繕ってるに他なりません。

さいきんは 
とんと
サブカル と呼ばれている価値観からモノを見ることから遠ざかっています。
ですが、思春期から青年期いや長く長くneverendingに続くと思われたこの自意識過剰との地獄の甘さを湛えた美しくも醜い蜜月、によって培われたモノの見方は、そう容易くは消えてはくれませんでこうして、やはり今でも影を落とすものでございます。

V&Rという大人ビデオの制作会社が作った悪名高きくそ げロのような(リアルなくそ ゲ ロ含め)大人ビデオの数々が救った魂がまたあることも忘れないようにしています。
とはいえ、
ワタクシはそれらビデオ作品をちゃんと見たこともありません。情報だけでしか知りません。つまり書籍を読む講演会などに行って話を伺ったりそうやってツール越しにしか知らないのです正味ナハナシ。
だから
本来は左様なことを言う権利も
言える立場にも居無い、わけです。
まさに、ヲイヲイヲイなんやそら。てな状態ではあります。
だけれど、やはりしみるのです。バカがしみてくるのです。 どうしようもないことを愛している魂を全く否定できないのです。それこそ、“にんげんだもの。”をこの世界でいちばんどーしよーもないとんでもないゆるしがたい汚ならしいむごたらしい そんなものに迄それを通低させられるか。
ということをただ突き付けられ続ける それだけの為に にんげんだもの。を使えるか それとの対峙のためにアタシハ 【かつてそういうとんでもないこと(げロ くそうじむし血生肉がい虫あらゆる体液抽出物生きとし生けるあらゆる生き物からでる排泄物ありとあらゆる考えうる限り限界なきすべての穢いよごれものを美しさと見据えられるか?という闘いをせずして本当の美しさ気高さ清らかさを発見することはできないのではないか?という壮大だがきちガい過ぎて誰もやりたがらない実験)を実際にやってみる、という行動力発想(アイデア)作者出演者またはキ 違いがこの世界に実際にい、生きていた】V&Rという存在が日本の文化の最底辺で発光していたことを
アタクシは
心に刻まずにはいられないわけです。

けっきょく
個人個人の意識のなかに発見してゆくほか、みちがありません多分。
やりかたもそれこそ人の数だけあるのでしょう。

だから
隣人を愛せよと協力しあうしかありません。
たぶん憎み合うことすら愛しかたのバリエーションだと思います。
今生では、罪でも
いつかのどこかの世界では愛です多分いやむしろ憎しみあうほどに愛でしかないのだろうけど。
わかんないけどね。
だめなことほど
わるいことほど
キにかけはるのが神のお戯れ神が人間に深キスするほど欲しいねんアンタをめっためったにするほど忘我の境地に誘うこれほど君を求め貪り愛慾の限りを尽くすことだったりする、とかね。やっかいなことにね。

とはいえ、またまた
これは言葉
いわゆる なぞり
孤独をたのしむ遊具。
ゲーム依存ゲーム廃人という言葉があるのだから
アタクシはさながら言葉依存作文廃人なのかもしれねーな。
言葉遊びヲスルタメダケニアタクシハ生きている。

ではまた。

ばいなら。
左様なら。


にんげんかぎょう。


画像1はいつかのMステ

画像2は 2/24・シネマトゥディのサイトより拝借(出典)してます。

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2月25日 

ぼっーう・・
あたまのしんがじんじん
煮えてるかんじ

今朝松尾ちゃんが夢のなかに出てきてくれた
胸毛がやけにリアル(笑)やったっケ毛だケに。てへっ。


申し遅れましたが
当ぶろぐにおこしくださいまして、
 ありがとうございます。

すっかり暖かくいや寧ろ暑いとすら言える天気でしたがワタクシは相変わらず元気にカラ元気しておりますよ!
あなたはいかがですか?

先日
よく聴いている地元のラジオ番組で
 ヤンキースから広島に移籍なさった
“男気”/“漢気” と書いて“くろだ”と読む 黒田投手が好きな言葉
を紹介していました。

なんでも
ヤンキースのミーティングでそういう好きな言葉を紹介しあう会があったようでそのときに黒田投手が披露したのが
『雪に耐えて梅花麗し』
せごどん(西郷どん)の言ったことばだということだ。
  
 厳しく過酷な雪の季節を越えたときに初めて梅花が麗しく咲く

 花が咲くということは
厳冬を乗りこえたという証し 

 厳寒であるほど
迎えた春がこの上ない麗しさで
梅花を咲かせる 

梅の花の麗しさは雪によって育まれる、と言っても過言ではない  

これらはあたくしがてきとーに意訳した文ですが
恐らく、当たらずとも遠からず
と言ったところか、と。
 
それはいいとして(笑)

黒田投手の好きなこの言葉に
多くの選手が感動したらしいが
なかでも
ジェラルディ監督は
いたく感銘を受け
自分のPCの待ち受けを“梅の花”にしたそうである。かわいい。

確かに
日々コツコツと研鑽を積んでいる人にとってはまさにこの上ないほどの
有り難い言葉ではないだろうか。

報われる、

では無く

梅花麗し

という表現

そこには損得感情が含まれていなくて梅花のかほり伝わる空気の爽やかさがある。同時に、花が咲くために枯れ落ちた枝葉の存在も同時にかんじる。

とまぁそんなことを
思いながら
アタクシも
想いの枝葉を伸ばしてみる
とはいえ、こっちの梅花はいつまでたっても咲かへん梅花やけどね(照)
なぜなら種すら蒔いてへんからです当たり前かあはは

さて昨日今日と いつもの如く
 ネット徘徊の儀を滞りなく遂行ス
でそこにて見っけたがとあるトピックス 
“渋谷すばるが直筆の反省文をプレスに配布した”
というものやった

J事務所の所属タレントは画像添付できないからここぞとばかりに
直筆手紙を載っけてて(笑)
でその渋谷さんの字がまた、ちょーかわいい☆(゜ロ゜)
二十代女子が書きそうな文字、て
あくまでもイメージね(笑)

TPOに応じて文字を書き分けできる手先の器用な女子が書きそうな文字、
ていうような、文字に見えました。

それはそうと、なぜかような反省文を書いてプレスに配ったのかその
因果関係を探して読むもやはり
イマイチわからない。
なので何も言及できないので
いつもの
単なるファンレターを書くことにします。

一応自分がネットから仕入れた情報は、
 渋谷さんのプレス対応する際の態度があまりに無愛想過ぎる から
 ということらしかったが、
個人的には、
現代という時代はこういうことも悔い改めるライン上にあり反省文を書く対象になるんだな、と逆に驚かされたほどであった。
 とそういう書き方すると、いかにも世間体が悪い/心象が悪く映るからなど あくまでも
体裁を整えるための反省文を書かされたみたいに聞こえるが( ̄▽ ̄;)
そうではなく
多分ホンマに マネージャー/事務所から 「渋谷よ、」と。「一社会人の態度として君のそれは果たしてどう考えるか?」 という
客観的ジャッジを自ら促したんじゃないか。だからこそ
渋谷が自主的に責任をとるというところから、
そうした反省文を書いて襟を正そう
ってなり、今回の行動に至ったんじゃないかな、と考えたのでした。アタクシ個人としては。

なるほど一般的考えとしては
・大人 として
・ジャニーズのアイドルとして
というか、つきつめると
・アイドルとして
・公共の場所を仕事場にしている社会人として
これらが表すのは→つまり、
社会人として見本になる態度を自然と要求されて然るべき場所で働いていることを忘れるな という観点が一般的だろうな。

だけどさ だけどもさ、
社会性とか一般的常識とか公共意識を越えたとこにあるのが芸術やとも信じているあたくしは。 特別意識とかそんなもんじゃ一切無い、
むだな、要らない、切り捨てられたような、それこそ、最初に書いた
社会性 常識 公共というものから打ち捨てられた 邪魔と判断された闇のなかからほんの少しでも光を放つ闇の中の発光体としてとらえ直す感性を、芸術は産み出す芸術の役割と思うわけで。
つまり、存在のもつ大事な側面は
うんこを 見方ひとつでうんこから飛翔させうることができるつうことや
とね、おもうんだけろね_(^^;)ゞ 

・自分から自然と愛想をふりまくことがなかなかできないから、歌うことで愛想に変えられたらいいと願う。

・愛想をふりまく、ということは歌うことのなかにも在るんだ ということを表現することが歌う人

・表情と態度と感情と本心を
器用にすみ分けさせて仕事モードにそれぞれを対応させることができない
だからこそ、
できないことが生む
できないことで知る
できる人にはうかがい知れないであろう側面を描き出すことで、常にもう一方の側を浮き彫りにする役目を担う。

ていうのと で あわせてやっとこさ一つの丸(円)になるようなキがするわけなんだ。

だからね
渋谷さんの今回の反省文はあるしゅの点やった
マルちゃんがいつも渋谷さんの後ろからストーカーのようについて回ってたのも(笑)あながち たまたま(偶々)でなく、「最後の一点を加えて描く円イコール=マル(丸)」という象形文字やないけど、名は体を表す が立体化顕在化した
必然やったんやないかと思うんだよ。

うん。

もっと前に進むには回転モーターまわして行かなくちゃね!♪

真剣さ(本気さ)も別トーンからのアプローチが必要になる、
より遊び(ギアの ね)の部分が大切になるから、強さ、しなやかさ には。
いじょ。
えらそーに。かいてみたを。



てぃーだイチオシ
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関ジャニ∞が大好きです。
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じょんとよーこみたいな?あ、怒らないで(照)
そんなアレではないけれど、これが 
pp(あ、わたくしのことっス) なりの
  裸歩&ppス ではあります。←LOVE&peaceのだじゃれ