この世に唯ひとつの“どれ”であろうがのどれ。
そこで
なんとなく
こんな感じじゃないか!?
と思ったわけ
どー聞いたところで
「どーかしてるぜ」
ブラマ吉田さんセリフ吐いちゃうとおもうけど
でもね
明らかに確信したんですよ
「あ、やっばいキリストって
役目なんじゃん」て。
それは
ごく ごく 当たり前のことなんだけども
そのあれでゆけば
この世におる全員すべてのものは
それぞれがただそれぞれの役目を担ってるだけなの、な
だからうらがえしたら
誰でもキリストで
キリストも わたしなわけで
たとえば
ここに手袋がある
手袋には
それぞれ
おやゆび用の突起
ひとさしゆび用の突起
なかゆび用の突起
くすりゆび用の突起
こゆび用の突起
てのひらにあたる用の部分
てくびにあたる用の部分
が用意されていて
手は
そこに入るだけ
そう、
歴史に名が残った超有名人物も
名も残らないどうやって生き死んだかわからない放浪者も
生まれてすぐ死んでしまった子供も
天晴れ天寿を全うした人も
ここにいるわたしも・・
手を通された手袋のそれぞれの指
のようなもので
あン?これはてのひら?
そんなふうに
差し込んだ場所のゆび、てのひら、
われわれは
そうやって役割と場所が
あてふりされている
なにゆびであろうと
ゆびはゆび
こうして役割が、
“あらゆる可能性”という
われわれひとりひとりの別名によって使われるようにできている
なるほど
と
たしかに
すべてに意味がないとは
意味あろうとなかろうと
それがそれそのもの、こと、
であるなら分けていっこいっこに意味付けする必要なんてないもの
ながれはそうやって
悠久
考えても
考えなくても
わたしがなにかを動かしてはいない
役割はしかも
一定じゃない
流れている
ならば
やるだけよ
むしろ従う のみよ
そんなことを
とめどなく思い浮かべています
なんにもない
なんにもない
からっぽなにんげん
であることは
なんにでもなれる
のね わたしは
この
わたしとされている
このわたし
は
この世で
唯ひとつの
“どれであろうが”の
その
どれ、
な こいつ、があたし なのさ。